ペルシア絨毯
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ペルシア絨毯基礎知識

主な産地

ペルシア絨毯の主な産地

  1. エスファハーン(ESFAHAN)・イスファハーン(ISFAHAN)
  2. エスファハーンはテヘランから南に約420km、イラン国土のほぼ中央に位置するオアシス都市で、約2,600年の古い歴史を誇り、数多くの遺跡や建築物が今も残っています。現在は世界遺産にも登録されている美しい町です。1597年、ペルシアの民族的統一を果たしたサファヴィー朝、シャー・アッバース一世によって、首都に定められ、政治、経済、文化の中心地として、最盛時には世界の半分(エスファハーン・ネスフェジャハン)とうたわれるほど隆盛を極めました。

    17世紀初頭、この地を訪れたフランスの旅行家シャルダンは、その賑いと街の美しさに驚き「周囲24マイル、12の城門をもつ高い城壁に囲まれた街の内部には、162のモスクと1,802の隊商宿、273の浴場があり、人口は60万人から110万人、エスファハーンはまぎれもなく世界最大の都市である」と書き残しました。ペルシア絨毯に強い関心を抱いていた王は、カシャーンに次いで王立工房を設け、宮廷職人を育成し、各地から腕の立つ職人を集め手厚い保護を与えたため、この地は絨毯の一大産地となりました。

    世界最高といわれる美しい手織り絨毯の地であるエスファハーンは、繊細な色調と精緻な織りに加え、リズミカルで精巧なメダリオンから広がる唐草文様が代表的なデザインが特徴です。1722年のアフガンの侵略により、街は壊滅的な打撃を被り、やがてサファヴィー朝は崩壊します。その後エスファハーンに復興の手が加えられる事はなく、エスファハーンが絨毯作りの再開をはたしたのは19世紀末のことでした。街が本格的に復興するのは1925年のパハラヴィー朝以降のことで、エスファハーンの復興とともに、レザー・シャーによる絨毯復興政策によりエスファハーンの絨毯産業も大きく発展することになりました。

    ペルシア絨毯 エスファハーン産

    織り方:ペルシア結び
    パイル:シルク、ウール
    経糸:シルク

    →産地別絨毯 エスファハーン産について

  3. カシャーン(KASHAN)
  4. テヘランとエスファハーンの中間に位置するカシャーンの歴史は古く、アケメネス朝時代から人が住んでいました。テペ・シアルクという紀元前5,000年頃の彩文士器文化の遺跡が残されています。
    13世紀には、ここでペルシアを代表する素晴らしい陶器や彩袖タイルがつくられ、工芸の町として知られています。サファヴー朝のシャー・アッバース一世にこよなく愛された町として知られ、この地にアッバース大王は葬られたといわれています。
    カシャーンは伝統工芸も盛んでサファヴィー朝初期、すでに王宮の工房があったといわれています。絨毯を始め絹織物、磁器、タイル商人の交易によりペルシアをヨーロッパに紹介したのはカシャーンの商人です。

    サファヴィー朝衰退後のカシャーンは他の産地と同様に絨毯作りも停滞したようですが、その水準はペルシア絨毯の最高到達点の指標ともなったようです。20世紀初め、イギリスの影響が強い時代に本土より良質なマンチェスターウールが持ち込まれました。この当時の絨毯産業はサファヴィー朝の繁栄とは比べものにならないほど衰退したなかで絨毯作りが始まったことが絨毯復興のきっかけになりました。俗に言うマンチェスター・カシャーンで、それが、伝説のひとつ『モクタシャム』という職人の作品がヨーロッパで高く評価され、モクタシャム工房は上質のシルクの絨毯もつくったといわれています。

    「モクタシャム・カシャーン」という言葉は、19世紀から20世紀初めにかけて最上級のカシャーン絨毯の呼び名となっています。モクタシャムは「豪華な」「壮麗な」「有力な」などの意味で、実際にサインが織り込まれた絨毯も存在するらしく、工房が存在したことは間違いないといわれています。この「モクタシャム」という言葉は、19世紀から20世紀前半にかけてカシャーンでつくられた絨毯のグレードの高さを示す呼び名となってしまったようで、ヨーロッパでは現在でも高く評価されオークションでも高値を付けています。

    ペルシア絨毯 カシャーン産

    織り方:ペルシア結び
    パイル:シルク、ウール
    経糸:シルク、コットン

    →産地別絨毯 カシャーン産について

  5. タブリーズ(TBRIZ)
  6. イラン北西部を占めるアゼルバーイジャーン地方の中心地タブリーズは、東西文明が交差する要衝の地にあり、イラン最大の商業都市として古くから栄えたところです。
    カフカズ(コーカサス)山系の南、標高1,367mの高原にタブリーズの町はあります。夏は涼しく、冬は寒く厚い雪におおわれてしまいます。この地は、いろいろな意味で、イランで最もヨーロッパ世界に近かったといえるでしょう。

    古くから東西交通の重要な位置を占め、その歴史はササン朝時代にはじまり、3世紀にはアゼルバーイジャーン、14世紀にはイル・ハーン国の首都ともなりました。19世紀にはイランの商業の中心地として、タブリーズの商人は近代ペルシア絨毯の中心的役割を担うこととなりました。タブリーズでは、西洋を意識する絨毯作りにより積極的にデザイン開発が行われました。

    19世紀末から20世紀初頭にかけて、伝説の工房「ハーッジ・ジャリーリー」が出現しました。カシャーンのモクタシャム同様、タブリーズの上質な絨毯は、ハーッジ・ジャリーリーの名で取引されています。
    タブリーズは大量の生産体制を組むため他の地域のような出機の女性による家庭生産でなく、工場生産が中心となり、時間労働にも耐えられる男性が織りを担当しました。そのため女性の細い指に替わるフックのついたかぎ針(フックバフテ)のようなものを用いてパイル糸を通しています。

    工房もデザイン中心とした工房が比較的多く見られ、トルコ結びで、絨毯以外に「タブロ」と言うピクチャ絨毯が有名です。
    ヨーロッパに最初に紹介された絨毯はこの地のもので、輸出向けの絨毯が早くから織られ、交易の窓口でした。また、数多くの名工を生み出し、常に斬新なデザインも手がけてきたことからも、デザイン工房と織り工房がそれぞれ独立していることで見てとれます。

    ペルシア絨毯 タブリーズ産

    織り方:ペルシア結び
    パイル:シルク、ウール
    経糸:シルク、コットン

    →産地別絨毯 タブリーズ産について

  7. ケルマーン(KERMAN)
  8. イラン高原、キャヴィール砂漠の南、ルート砂漠の西に位置するケルマーンは、東西交通の要衝の地であり、3世紀ササン朝ペルシアのアルダシール一世によって建設されたといわれています。
    インドヘのルートの中継点にあたり、昔から侵略と虐殺の凄惨な歴史を歩んできた町でもあります。作物の望めない不毛の地で、古くから織物や刺繍が発達しました。
    アフガンの国境とも近いため、18世紀初頭(1722年)のアフガン族進入に際して、壊滅的な被害を受けましたが、絨毯づくりの長い伝統は失われることなく、細々ながらも受け継がれてきました。

    18世紀に盛んだったショール産業が19世紀末に衰退し、多くのショール職人が絨毯産業に流れ込んだこともケルマーンの絨毯づくりの発展に拍車をかけました。19世紀末絨毯の復興期にはタブリーズの商人がテコ入れし、いろいろなデザインを持ち込んで発注しました。また、20世紀には欧米資本が流入し、第一次世界大戦後はアメリカの需要が増大して無地のフィールドのメダリオン絨毯である「アメリカケルマーン」が大量生産されました。これは今もラーヴァル村を中心につくられています。

    ペルシア絨毯 ケルマーン産

    織り方:ペルシア結び
    パイル:ウール

    →産地別絨毯 ケルマーン産について

  9. ビジャー(Bidjar)
  10. クルディスタンの東北部にある緑豊かな町。 周辺の40余りの村や町で生産されている絨毯は、緯糸3本使用するのが特徴です。かつては羊毛を用いていましたが、現在ではほとんどが綿糸で、仕上がったものは堅く重いものが多く鉄の絨毯とも呼ばれています。

    織り方:ペルシア結び
    パイル:ウール

    ペルシア絨毯 ビジャー産

    織り方:ペルシア結び
    パイル:ウール

  11. ナィン(Naein・Naien・Naeen)
  12. 地理的にイランのほぼ中央に位置し、エスファハーンの東へ150Km、東カヴィール砂漠の南端に位置するナィンは周辺を砂漠に囲まれた小さなオアシス都市です。イスラーム初期のモスクや素晴らしいミヘラーブ、14世紀のミンバル(説教壇)を有する金曜モスクでも有名な町です。

    昔は上質なウールの布の産地として有名でしたが、機械織り製品の氾濫と共にそのテキスタイル産業も衰退し、その工房が絨毯産業へと転換をはかったのが1920年代のこといわれています。
    織り技術、デザインともにエスファハーンの影響が大きく、ナィンの初期の絨毯にはトゥーデシュクの絨毯も含まれます。トゥーデシュクはエスファハーンとナィンの中間にある村で、1940年頃まで良質のナィン絨毯を産出したところです。

    エスファハーンの指導で始められ法衣制作をしていたハビビアンが、イスラーム建築の巨匠アルチャングのデザインを絨毯に織り込み、やがて、その品質が西欧で高い評価を受けるようになって、ナィンは世界に知られる絨毯産地となりました。
    濃淡のブルー、ベージュ、レンガを基調とする、落ち着いた色調、白の絹でモチーフの輪郭をとって文様を浮かびあがらせる手法などがその特徴となっています。

    ペルシア絨毯 ナィン産

    織り方:ペルシア結び
    パイル:ウール(希にシルクパイル)

  13. クム(QUM)・コム(QOM)・ ゴム(GHOM)
  14. 町の歴史は古く、5世紀前半、ササン朝ペルシアのバハラーム5世によって建設されたといわれています。
    9世紀、十二イマーム派第八イマーム、レザーの妹ファーテメが祀られることによってシーア派イスラーム教徒の重要な聖地となり、この派の巡礼地のひとつとなりました。

    14世紀、ティームールによって町は戦略されますが、17世紀サファヴィー朝のシャー・アッバース一世をはじめとする歴代の王によって広大な廊が建設され、聖地として外貌が整いました。敬虔なイスラーム教徒は、死後ここに埋蔵されることを願い、サファヴィー王朝歴代の君主のほとんどがこの地に眠っています。20世紀初頭にコムはイランのシーア派十二イマーム派の総本山となりました。コムにおける絨毯づくりは1930年頃、カシャーンからコムへ工房ごと移り住んだことから始まったといわれています。

    当初はウールの絨毯が中心でしたが、1950年頃からパート・シルクの絨毯がつくられ始め、1960年代にはオール・シルクの絨毯が大半を占めるようになり、人気はヨーロッパでも急上昇しました。コムは新興産地ゆえ伝統柄がなく、デザインはイラン各地の意匠を取り入れ、まさに工房が力を発揮できる十分な条件が整われたといえます。やがて斬新な意匠とさまざまな工夫をする工房が頭角を現し、旺盛な創作活動を開始しました。
    このようにコムは、イランで最も絨毯工房の動きの活発な産地となったのです。

    ペルシア絨毯 クム産(ゴム・コム)

    織り方:ペルシア結び
    パイル:ウール

    →産地別絨毯 クム産について

  15. ホラーサーン(Khorasan)
  16. ホラーサーンはイラン北東部を中心にアフガニスタン・トルクメニスタンにまたがる地方です。
    古代、パルティア帝国の発祥地であり、中央アジアからイランへの通路に当たります。
    ホラーサーンは、古来より、北方遊牧民族が中央アジアから南下して、イラン、インドに入る通り道にあたっていました。そのため、現イランの領域を含め、この地域を領有する王朝にとっては、重要な防衛ラインであって、歴代の皇太子が太守に任ぜられるのがならわしになっているほどでした。
    また、東西交通の主要幹線が貫く地域で、「シルクロード」のイラン地方を通過する部分は、「ホラーサーン街道」と呼ばれました。

    織り方:ペルシア・トルコ結び
    パイル:ウール

  17. ビールジャンド(Birjand)
  18. ビールジャンドは首都テヘランから1,309km離れたイラン南東部に位置し、イラン東部の南ホラーサーン州のの州都です。周りを砂漠で囲まれているために南部では気温が高く、山間部では温暖な気候です。
    かつてビールジャンドはガーエスタン(ペルシア語で山側という意味)地方の小さな部落で、ここでアッバース朝の手から逃れようとしたアラブ人をかくまっていたようです。11世紀のサファヴィー王朝期、シーア教が広く知れ渡り出した頃から、この町は経済的にも発展を成し遂げ、商業都市としての重要な位置を成すようになりました。この地にゾロアスター教徒が生活していた事も発見されています。
    現在ビールジャンドはホラーサーン州南部の中心地として栄えており、ここで織られる絨毯はタブリーズのマヒ文様に良く似た、ヘラティ文様を中心にデザインされた絨毯を作る事でその名を知られるようになりました。

    織り方:ペルシア結び
    パイル:ウール

  19. マシュハド(Mashhad)
  20. ラザヴィー・ホラーサーン州の州都マシュハドは、シーア派十二イマーム派第8代のイマーム・レザーの殉教の地で、イラン第1の聖地となっています。町の中心地にあるイマーム・レザー廟には、イラン全土はもとより、パキスタン・アフガニスタンなどからも数多くの巡礼が訪れ、祭礼時には、75万といわれる町の人口は2倍以上ふくれあがるといいます。

    ヘラートでマシュハド絨毯について、ホラーサーンの絨毯という言葉の中にはマシュハド絨毯も含まれると思われます。19世紀末、タブリーズの商人が絨毯産業の復興のため、マシュハドにも乗り出し、数多くの絨毯工場を設立するとともに、タブリーズから多くの絨毯職人を投入しました。この頃からマシュハドの絨毯には、ペルシア結びとタブリーズの織り方のトルコ結びが並存することになります。繊細な織りで定評のあるマシャハドの手織り絨毯は絨毯産地としても名高く、かつてイマーム・レザー廟には信者から寄進された膨大な絨毯があったといわれています。

    ペルシア絨毯 マシュハド産

    織り方:ペルシア・トルコ結び
    パイル:ウール

    →産地別絨毯 マシュハド産について

  21. トルクメン(Torkaman)
  22. イラン北東部国境近くの遊牧民トルクメン族が織る絨毯で、ひし形の文様 「ギュル」(部族や家柄を表す)がトルクメン独特の文様です。トルクメン絨毯の模様は何世紀もかけて発展し、遊牧民の自然とのかかわりが象徴的に表され、幾何学的なモチーフが用いられています。そして美しい赤が伝統色です。部族ごとに異なるモチーフをもち、代々受け継がれています。

    絨毯は遊牧民にとって、生活にあらゆる場面に必要とされるとても重要なものです。特に寒さから身を守るために絨毯がテントの床や壁に敷き詰められました。絨毯作りはトルクメンの伝統文化でありながら、何世紀も中央アジアの外に出ることなく、長らくその存在はあまり知られていませんでした。今では世界的に有名な絨毯のひとつになり、その技術は専門的なものとして保護され、芸術として高められています。

    ペルシア絨毯 トルクメン産

    織り方:ペルシア・トルコ結び
    パイル:ウール・シルク

  23. サルーク(Sarugh)
  24. アラクから北へ車で一時間くらいの小さな町です。アラクと同様絨毯においては歴史があり、耐久性のあるウールの絨毯を産出しています。

    織り方:トルコ結び
    パイル:シルク

  25. セネ(Senna)
  26. 一般的にはセネの名で呼ばれていますが、クルディスタンセネとも呼ばれます。クルディスタン自治区ということもあり居住者の大半がクルド人ですが、カルデア人(Chaldean)、アルメニア人(Armenian)もおり、特に花柄模様が使われていることが多いので、非常に華やかな印象を受け、キリムが多く産出されています。
    縦糸に綿、横糸にウールが使われていることがほとんどで、花・植物のツル・蜂などの細かい単一のモチーフを一面に敷き詰め、中央部に菱形の枠を設け、その中にも花柄を敷き詰める模様が典型的なパターンです。

    織り方:トルコ結び
    パイル:ウール

  27. アルデビル(Aldbil)
  28. イラン北部、東アゼルバーイジャーン州の町で、この土地は昔から羊の飼育が盛んで、他の産地へ羊毛の供給もしています。したがって高品質のウール絨毯が産出されています。ベースにシルクを使用したものも見かけることが出来ます。

    織り方:トルコ結び
    パイル:ウール

  29. バクティアリ(Bakhtiari)
  30. バクティアリは部族名と地名の両方に用いられ、”バフティアリ”や”バクチュアリ”などとも呼ばれています。 バクティアリ族はイラン南西部に住む遊牧民でロリ語(Lori)を話すことから、(ロリ族)と同属として扱われることもあります。

    織り方:ペルシア結び
    パイル:ウール

    ペルシア絨毯 バクティアリ産

    織り方:ペルシア結び
    パイル:ウール

  31. ギャッベ(Gabbeh)
  32. ギャッベとは産地でなく、ペルシア語で「毛足の長く粗い絨毯」を意味します。
    イラン南西部の遊牧民によって古くから生活の中の必需品として織り続けられている手織の絨毯のことです。

    もともと遊牧民が居住するテントに敷き使われ、生活に無くてはならないものなのです。夏は暑く、冬は寒くさらに昼夜の温度差が大きい自然環境の中で生まれたギャッベ。この素朴なデザインの絨毯は羊毛、草木染めで主にカシュガイ族、ルリ族などの遊牧民たちで織られています。赤は夕日の赤・火の赤、緑は草原の緑、青は空・水の青、ベージュ大地の自然の色。すべて天然の恵みによって創り出されたギャッベは現在最も「エコ」な絨毯とも言えます。

    ペルシア絨毯 ギャッベ

    織り方:ペルシア結び
    パイル:ウール

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